言葉にできない何かを求めて

私のためにホットミルクを作って頂戴

そういうお年頃なの。 ぱーと2

前回の日記からだいぶ日が経ってしまいました。特に忙しいわけでもなく、かといって暇なわけでもなく、平凡な毎日を送っています。

さて前回で予告した通り、今回も「れっつら☆シューカツ!じこぶんせき~」していきます。ちなみに第一回目は「負けず嫌いな口先だけ女、なっつん」でしたね。

 

第二回目はずばり「周囲の変化に敏感」です。

これが長所なのか短所なのかはわかりません。ですが、自分が感じたこと・思ったことを書き綴ろうと思います。

おそらくこの周囲の変化に敏感なのは、私が周囲からの評価に敏感だからだと思います。昔(といっても中学生時代あたり)は「一人で行動する」ことができずに友人の後ろを金魚の糞のように追い掛け回していたからです。つまり、「周りの環境に合わせる」ことが得意だったのかもしれません。

ばばちい例えになりますが、金魚の糞はその金魚が早いスピードで泳いだり急旋回したりするとちぎれます(表現あってる?)。また、もし金魚の糞に意志というものがあって「私はこの金魚から離れたくないの!」という気持ちが現れれば、何が何でも金魚にしがみつこうとするでしょう。

一人で行動できないからこそ、友人たちの真似をしそして何とかして友人関係を成り立たせようとする。そんなズル賢い性格でした。

後ろを追いかけて真似するということ、それはつまり周囲の変化に気づいたらそれに合わせて適応することもおそらく人並みもしくはそれ以上にできるかなと思いました。

 

その名残で今でも「私の行動がどう周りに影響するのか。影響するとしたらそれは悪影響なのか。だったら行動自体やめてしまえばいいのか。」なんてむにゃむにゃ考えこむことがあります。

こういうむにゃむにゃ感は「ええい!周りなんか気にせんでええ!」という「大胆さ」が必要なのもわかっていますが、どうも私には「大胆さ」が欠けているようです。

また「環境の変化に合わせる」ことについては、さきほど人並み以上できるのではないかと書きました。これについてはうまい具体例が思いつかないので割愛します・・・(はあぁ?

要は自分の個性を潰して周りに合わせるっていういわゆるイエスマンのような存在でもあれば、他方私自身が「環境」を変化させることで周りをそれに合わさせるようにしむけるという、なんだかスライムのように自由自在に自分をその場でその場でかえることができるのです。(要せていない)

 

第一回、第二回と自己分析を書いてきましたが、改めて読むと抽象的だよなあ。そして私だけではなく誰もが同じことを考えていそうだなって思いました。

れっつら☆しゅーかつ!じこぶんせき~第三回はあるのでしょうか、わかりません。

代わりといっては何ですが『何故夏を舞台にしたアニメが多いか考えてみた』というタイトルで記事を書こうと考えています。

そういうお年頃なの。

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[北海道ぶらり旅の一枚]

前回の日記のタイトル気に入ったのでこのブログのタイトルにしてみた。ちなみにもうひとつの候補は「キミは流れ星をみたことがあるか」です。

 

私は大学生で、もうすぐシュウショクカツドウをすることになります、おそらく。

そこで今流行りの自己分析というものをしてみようと思いました。

ちょっと前まで鼻ほじりながら「今」が楽しければいいな、と思いながら友達とたらたら遊んでいたのに、今じゃもう数年後いや数十年後のことを考えながら行動しないといけない年になったんだなあ。

 

自己分析そのいち~ 「すっげー負けず嫌い」

負けず嫌いって言い方変えたら「嫉妬深い」ってなるのかな。

自分でもできそうなこと(だと思っている)を誰かがしてそれが賞賛されているとすごいむむってなる。こう体の奥のどこかがふつふつとするんです。「私もできるんだよー」って。

それも私は行動になかなか移さないタイプなので頭の中でぷんすかぷんすかしてるだけなのです。自分のことながら自己中な奴だな、全く。

けどさあ、結局世の中は「頭の中で考えているだけ人間」よりも「頭の中で考えたことを行動に移す人間」のほうが認められるんだよね~。

そりゃそうだよね、ヒトの頭の中へ「あ、ちょっと失礼しま~す」なんて言ってそのヒトのアイディアを見れるもんじゃないし。

というわけで負けず嫌いだけど行動に移さないクズ人間だということがわかりました。

 

おそらく次回も「自己分析日記」続きます。

 

言葉にできない何かを求めて

心のなかでもやもやしている時って何気なく過ごしていてもその「もやもやしてるもの」と関連する出来事に出会うとはっとなるんですよね。

確かこのことを心理学用語でなんたらって言った気がする。真面目に授業受けてなかったから覚えてない。

 

すごいいきなりですが、世の中では「死は隣り合わせ」っていうじゃないですか。けど、死っていうのは隣にいるんじゃなくて常にわたしたちの後ろにいるんだと思うんです。

隣にいるとするならば、少し顔を横に向ければ視界に入るじゃないですか。「うげ、またお前かよ」って。けど、死ってそこまで身近なものだという意識は私にはありません。

むしろ私のまわりにいる家族、友人が「あ、あそこに。」と指をさして私が振り返って「あ、お前か」となるのが死なんだと思います。

ここ数年親戚がなくなることが何度があって、いつも着ている制服が線香臭くなりつつなんだが不思議な気分になったり、ちょっと大きめの母の喪服を借りて涙を流したりしました。

そういう時に必ずといっていいほど「よう、お前元気か?俺の事覚えてるか?」って片手をあげて私にニヒルな笑いを投げてかけてくるのです。

ぞくりとしますが、でもちゃんと向き合わないといけないんだよね。いつか私も彼に呼ばれる日がくるわけだし。

正直に言うと、私はまだ死にたくないので親戚がなくなった日やお通夜の日は夜が怖くて怖くて電気をつけて明るいまま寝るのです。私も一緒に連れていかれちゃうのかなって根拠のない気持ちが溢れ出るのです。 

 

なんだかよくわからない内容になったし、どこの池沼だよっていうくらい謎な日記ですが、とりあえずいいたいのはいつ肩を叩かれてもおかしくないってこと。

それは私自身の肩かもしれない、あるいは私が大切に思っている人の肩なのかもしれない。

枕の横に携帯を

最近あまり夢を見ないのでこのブログを使う機会がめっきり減ってしまいました。

おそらくほぼ毎日のように夢はみているのでしょうが、すぐに忘れてしまいます。見た夢を毎日日記につけることで明晰夢をみれるようになると聞いたことがあるけれど、あまり興味にないし。

「夢だけでは自分の好きなようにさせて」なんてよく言いますが夢って自分で操れないからこそ面白いし、夢なんだとおもうけどなあ。

そりゃあもちろん怖い夢なんか見た日にゃその日一日どんよりしちゃいますけどもー。

また日中に怖い話や番組をみて真っ暗な部屋にいられなくなる時もありますけどーってこれはあまり関係ないか。

なんで怖い話や番組をみるとトイレにいけなくなったり真っ暗闇が怖くなるんだろうね?

 

とりあえずこの日記は夢だけに絞らずのほほんと書いていこうと思いました、うん。

00.

HatenaBlogに招待してもらいました。

こちらからお願いしたわけではないのですが、とってもとっても嬉しいです。ありがとう。

 

私はこのブログ以外にもブログをやっていましてはっきりとしたテーマもなくただ徒然なるままに書き綴っています。

さてこのブログのテーマはどうしようか。テーマ募集中。